★まえがき:
デラえもんは新卒で大手自動車メーカーに就職しました。そして昨年(2023)、約25年勤めた会社を辞めました。まだ50歳、転職ではなく退職、現在は無職です。心身は健康。でも会社辞めました。
そこでなんで会社を辞めたのか?その理由と心境を書き残しておきます。先におことわりしておきますが実はなぜこんなに長く勤めた会社を辞めたのか、いまだに整理ができていません。この記事を書いている時点で退職後約4ヶ月が経っていますが、いまだにうまく説明できません。
この記事を書くことで少しでも整理ができればと思い、自分のために記事を書きおこそうと思います。
▼ この記事の構成
★結論:辞めた理由…自己肯定感の欠乏
基本的にデラえもんは会社員に向いてません。でも「会社員に向いてない」ってどういうことなんでしょう。デラえもんは何が苦手で、会社のどこがイヤなのか、そこをもう少し深掘りしたいと思います。個人的な自己分析なので読者の皆様には関係ないことかもしれませんが、25年も同じ会社で会社員やるとこんなふうになるのねー、と軽く読み流していただければ幸いです。
ざっくり整理すると辞めた理由はこの5つです。特に決め手となったのは「自己肯定感の欠乏」でした。順に説明させていただきたいと思います。
- 理由1:つまらない仕事
- 理由2:人間関係のストレス
- 理由3:自己肯定感の欠乏
- 理由4:死への意識と焦燥
- 理由5:自由への渇望
理由1:つまらない仕事
一般的に「仕事おもしろい」とか「やりがい」とかって言われますが、デラえもんは仕事が楽しいと思ったことがないんです。人としてなにか大事な感情を欠落しているのではないかとひそかに寂しく思っていたりします。仕事がおもしろいとはどういうことなんでしょうか…?
- 仕事の緊張から解放された瞬間の開放感で幸福を感じるのでしょうか?
- 上司に褒められたり客先に感謝されたりという承認欲求が満たされた瞬間の幸福感ですか?
- 仕事を完遂した時の「オレがやり遂げた!」という自己肯定感ですか?
これらを称して仕事が楽しいとかやりがいとか呼ぶのなら、なんとなく頭では理解できます。
ではデラえもんが会社員として働いていた時に幸福感を得られなかったのはなぜだろう?
答えは「仕事が他人から強制されたもんだから」「会社での仕事に意味があると思えなかったから」です。
ロシアの小説家ドストエフスキーの話を引用します。彼はシベリアで抑留された時に強制労働をさせられました。その時の体験をもとにこんなことを書いています。
監獄では、受刑者にレンガを焼かせたり、壁を塗らせたり、畑を耕させたりした。
強制された苦役であっても、その仕事には目的があった。
働けば食料が生産され、家が建ってゆく。
自分の働く意味を見出せるから、苦しくとも耐えてゆける。
立派に仕上げようという気さえ起こす。
ところが、たとえば、水をひとつの桶から他の桶に移し、
またそれをもとの桶にもどすとか、砂を搗くとか、
土の山を1つの場所からほかの場所へ移し、
またそれをもとにもどすとかいう作業をさせたら、
囚人はおそらく、4、5日もしたら首をくくってしまうだろう
「もっとも残酷な刑罰は、徹底的に無益で無意味な労働をさせることだ」
※ドフトエフスキーとサラリーマンの悲哀については過去にも詳しく書いたので、よろしければ
参考→https://dera-emon-2-side-fire.com/313-2/
無意味な労働を課せられることは残酷な刑罰なのです。
デラえもんにとって会社での仕事の意味が理解できませんでした。社会と消費者に貢献し利益をあげて給料を得る。そのために自分に与えられた役割をこなすのが仕事。ここでどうにも納得できなかったのは「本当に社会に貢献できているのか?」「お客様の役に立っているのか?」ということでした。
自動車メーカーでの仕事は、特に必要もないもの目新しくもないものを無理やりお客様の欲求を煽ってお金を消費させているような気がしていました。そんなの意味があるのでしょうか?大量生産で一般消費者に購入してもらうにはこれ以上追加する付加価値なんてないんです。だってもう十分に高機能で高品質なんだもん。じゃああとはコスト削減しかない。社員が努力と根性と痩せ我慢で文字通り身を削るしかない。固定費を削り日程を削り凄惨な環境で仕事をする羽目になります。
社員の自己犠牲を事業利益に換金するするようなビジネスにどんな意義があるのだろうか。
理由2:人間関係のストレス
サラリーマンなら人間関係のストレスはご理解いただけると思います。職場での人間関係は選ぶことができず、どうにも合わない相手とも付き合わなくてはいけません。互いにストレスを抱えたコミュニティでは本来は優しくていい人でも攻撃的になり傷つけ合います。
※デラえもんの元職場は昭和的なパワハラ職場でした。デラえもんがパワハラ社員と戦ったときの記録はこちらをご覧ください→https://dera-emon-2-side-fire.com/wp-admin/post.php?post=485&action=edit
キャリア終盤、デラえもんは昭和的な脳筋社員が幅をきかせるパワハラ職場の中間管理職でした。職場では常に誰かが誰かを攻撃していて中間管理職はその火消しや調整に追われていました。さながら生活指導の教頭先生あるいは猿山の飼育員のような仕事です。理不尽が横行し未来ある若手社員が働かないパワハラおじさんに次々と潰されていくのを食い止められなかったのは今でもトラウマになっています(涙)
職場での人間関係のストレスって個人の問題ではなく、共同作業を強要する仕組みそのものが元凶なのではないでしょうか。
理由3:自己肯定感の欠乏
ここからが本質です。ストレス満載の職場で無意味な仕事を強要されると苦痛がつのります。ただ、デラえもん、苦痛に耐えるのは得意です。けっこう人よりも我慢強い方。多少のことではヘコたれない…つもりでした。しかし、どうにも耐えられない。当初なぜこんなにツラいのかわかりませんでした。
原因は自己肯定感の欠乏です。
人が頑張れるのは、頑張れば明るい未来があるからです。
人が耐えられるのは、耐えればそれに見合う褒賞が得られるからです。
しかし、私ひとりの力では職場のパワハラ体質は変わらない。私ひとりの力では会社の仕組みやビジネスモデルは変わらない。
私が全力を投じているのになにも変わらない、変えられない。
私には存在価値がない。
…と感じるようになったのです。
“自分で自分がキライ”というのは辛いものです。だって24時間365日キライなヤツと過ごすわけですから。
理由4:死への意識と焦燥
45歳を超えたあたりだろうか。脳の処理能力が落ちてきたことを自覚しました。以前にはできていた課題の解決能力が落ちている、気のせいではない。明らかに切れ味が落ちてきた。
美味しいものを食べても、美しい景色を見ても、感動が薄れてきた気がする。それにともなって「〇〇に行きたい!」「△△にチャレンジしたい!」といった欲求が冷えてきた気がする。
気がする…いや、気のせいではない、感受性と好奇心が落ちてきている。
最初は忙しい日々で疲労しているだけかと思った。でも業務を効率化して定時退社の日々を手に入れても以前のようなエネルギーが湧いてこない。せっかく時間を手に入れても毎朝ベットから起き上がるのが億劫だ…なんとなく。
これは心の老化だ。
これはマズイぞ。私は時間から価値を引き出す能力を失いつつある。
残された時間は思ったより少ない。「オレはこのまま味も色もない時間を見送ってタヒぬのか?」という思いが頭をよぎりました。 ゾッとしました。
人間は誰しも死に向かって生きています。でも、どこかで「老後」「定年」「いつかの自由」を幻想的に信じていませんか?冷静に考えてください「あなたは自由を手にした時、その自由から価値を引き出せますか?」
自由を手にした時、美味しいものを美味しいと思える味覚は残っているだろうか?
自由を手にした時、美しい景色を見て美しいと思える視力は残っているだろうか?
自由を手にした時、愛する人を愛おしいと思える心は残っているだろうか?
私は怖くなりました。私に残されている時間は思ってるより短い。
ならば、心が老いて枯れる前に自分が本当に価値があると思えることに心を燃やしたい。
会社の上司•同僚(=他人)の期待に応えてる場合じゃない。一刻も早く「自分自身で価値があると思えること」に時間を投じたい。 それは焦りであり、希望でもありました。
理由5:自由への渇望
社会人になってからずっと、時間は“誰かの都合”で決まっていました。 通勤、会議、納期、休暇日数、昼食時間、果ては服装や髪型までも。
気づけば、人生のあらゆる選択肢を会社に明け渡していた。
「今日はゆっくり本を読みたい」 「今すぐ旅に出たい」 「誰とも話さず黙々と働きたい」
そんな些細な願いすら通らないのが会社員という生き方。
若い時はそれもいいでしょう。時間はたっぷりある、時間よりもお金の方が価値がある。
問題は歳をとってからです。残された時間は少ない、明らかに時間の方がお金よりも貴重だ。それなのに若い頃と同じように時間差し出して換金するような生き方を続けている人が多い。
「“お金と自由”どちらが貴重なのか?」みんなこの問いにもっと真剣に向き合うべきだ。真剣に考えたらそんなに時間や自由を易々と切り売りできないはずだ。ぼやぼやしている暇はない、
自由の価値は確実にインフレしていく
私にとっての自由とは、日々の些細な意思決定を、自分でできる状態。 誰かに承認されなくても、意味を説明しなくても、自分の人生を自分の足で歩ける状態。
それを強く強く求めるようになったとき、 「ここから抜け出さなきゃいけない」という気持ちが、自分の中で疑いようのない“答え”になっていました。
★さいごに
ここまで書いても、まだすっきり説明できているわけではありません。 それでも、こうして言葉にしていくことで、自分の中の霧が少しずつ晴れていくような気がします。
私は会社を辞めました。辞めた後どうするかも決めないまま辞めました。「身の振り方も決めてないのに辞めたのかよwww」と内心笑われているかもしれません。正直不安になることも多いです。
でも、後悔はしていません。
私はいま「私にとっての幸福ってなに?」という問いに向き合うことができています。
ずっと他人の期待に応え続ける人生を送ってきた私にとっては難しい課題です。
でも「幸福ってなに?」に真剣に向き合うって人生の本質でしょ?
私はいま50歳、初めて自分の足で自分の人生を歩み始めた気分です。
いま会社を辞めて本当の人生を歩み始められているのは、きっかけは“思考の解毒”でした。
私は気づきました。苦しさの正体は、環境でも業務内容でもなく、「自分の人生を自分で選んでいないこと」だったのだと。
会社が悪いわけじゃない。 上司が悪いわけでもない。 ただ、「自分で考えて、自分で選ぶ」という当たり前の感覚が、会社員生活のなかで、少しずつ、でも確実に、奪われていったのです。
思考停止はじわじわと心をむしばみ、やがて「生きている実感」そのものを奪っていきます。
だから私は、あえて立ち止まり、あえて辞めました。
そして今、ようやくゼロ地点に立っています。 まだ道は見えていません。 でも、それでいい。自分で決めた道を、自分の責任で歩けることこそが、人生の本質だと思えるようになったからです。
もし、あなたがいま「なんとなく毎日がしんどい」「でも辞めるほどじゃない」と思っているなら。
それは「本当に問題がない」のではなく、 自分の気持ちに鈍感になってしまっているだけかもしれません。
他人の期待に応え続けるうちに、自分が何を感じているのか、何を望んでいるのか、分からなくなってしまった人は多い。
でも、あなたの人生は、誰かのものじゃありません。
自分が何を感じているのか。 何を望んでいるのか。 一度、自分の心の声に耳を傾けてみてください。
その声を聞いてしまったら、もう元の生活には戻れないかもしれません。 でも、その先にあるのは、誰かの都合で決められた人生じゃなく、あなたがあなたの意志で歩む人生です。
「本当にこれでいいのか?」と立ち止まることは、恥でも敗北でもありません。 それは、人生を取り戻すための、最初の一歩です。
心から、そう思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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