目次
- ★まえがき:FIREは“逃げ”ではなく“再起動”だ
- ★会社員という制度装置からのドロップアウト
- ★サラリーマンは“制度の奴隷”か“共同体の亡霊”か
- ★FIREは“経済的自由”の話じゃない、“思考的独立”だ
- ★“知性あるドロップアウト”という選択肢
- ★さいごに:思考停止からの離脱こそが本当のFIRE
★まえがき:FIREは“逃げ”ではなく“再起動”だ
「FIREって結局、働くのが嫌なだけでしょ?」と言われることがある。そうかもしれない。だが、問うべきは「嫌な理由」だ。
現代社会において、働く意味が空洞化している。「家族のため」「信用のため」という大義名分は弱まり、代わりにフォロワー数とアルゴリズムに従う日々。
それでも私たちは、毎朝目覚ましに従い、定時に打刻し、意味があるとは思えない会議に出て、気づけば「今日も何も変わらなかった」と帰路につく。
この社会では、「自由に生きていい」とされながら、そのための言葉や思想を奪われている。
それと対象にFIREを定義するなら、FIREとは“言葉”を取り戻す行為といえる。“逃げ”ではなく、“再起動”である。
★会社員という制度装置からのドロップアウト
かつての会社は、疑似家族だった。だが今、会社は「資本装置」でしかない。終身雇用は崩れ、成果主義とAI評価が蔓延する。
それでも社員は、昭和的な“忠誠”を守り続けている。「朝早く来て残業するのが偉い」「飲み会で絆を深めろ」——それ、誰の得?
そして、私たちは気づかぬうちに、同調圧力に自ら加担している。上司に合わせ、部署に合わせ、空気に合わせ、人生を消費する。
FIREとは、これらの構造に「NO」と言うこと。自分で制度を選び直すこと。それが“逃避”ではなく“自律”である。
★サラリーマンは“制度の奴隷”か“共同体の亡霊”か
朝、満員電車で通勤し、顔を出すことに意味がある会議に出る。昼休みは皆と合わせて、定時まで席にいる——これらの行動は合理的か?
それらは、もはや“儀式”に近い。合理性ではなく「やることになっているからやる」。まるで自動化された労働儀式。
しかし、私たちはこうした制度に疑う力を削がれた状態にある。「この働き方、おかしくない?」という疑問すら口にできない空気。
だからまずは、「おかしい」と思う感覚を取り戻そう。違和感を言葉にすること。それが“思考停止”からの最初の脱出だ。
★FIREは“経済的自由”の話じゃない、“思考的独立”だ
「FIRE=お金持ちになって早期リタイア」と考える人は多い。でもそれは本質を見誤っている。
FIREとは、経済的自由ではなく、思考的独立だ。他人が敷いたキャリアのレールから降り、自分の時間、自分の価値、自分の働き方を“自分で定義する”こと。
お金が目的ではなく手段であり、自由の本質は「誰に従うか」を自分で選べること。
FIREは、経済の話であると同時に、哲学の話である。
★“知性あるドロップアウト”という選択肢
「辞めたら逃げ」「続けたら正義」——その構図、誰が決めたのか?
FIREとは、知性あるドロップアウトだ。ただ辞めるのではない。「自分はなぜここにいたのか?」「この制度は誰にとって正しいのか?」を考えたうえで、外に出る選択。
これは怖い選択だ。だが、“勇気”とは怖さを消すことではない。怖さを抱えても進むことだ。
FIREとは、マニュアルを捨てて、自分の脚本で人生を歩むこと。誰かの正解をなぞるのではなく、自分の問いに従うこと。
★さいごに:思考停止からの離脱こそが本当のFIRE
FIREとは、人生のやり直しではない。“思想の取り戻し”だ。
会社を辞めることがゴールではない。誰かに認められることも目的ではない。自分の思考が止まっていないか?——この問いを抱き続けることが、最大の自由である。
もしあなたが「この働き方に意味があるのか?」と疑問を持ったなら、それは“新しい道”への招待状かもしれない。
さあ、「本当にこれが自分の人生か?」と、自分に問い直してみよう。
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