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FIRE後の意外な落とし穴
FIREして自由を手に入れた。
誰にも縛られず、やりたいことを、やりたいときに、やりたいだけできる。かつての自分が夢に描いていた、そんな「完璧な自由」が、いま目の前にある。
会社を辞めて、しがらみも、通勤も、締め切りもなくなった。幸せの形をようやく掴んだ……そう思っていました。
でも、そこには想像もしていなかった落とし穴があったのです。
今回はその「落とし穴に落ちたあと」の心境を、つつみ隠さずお伝えしたいと思います。これからFIREを目指す方や、自由を求めている方にこそ届けば幸いです。
自由になってやったこと全部やった
この2年間、私は「かつて やってみたかったこと」を片っ端から試してきました。
たとえば――
・長岡の花火大会や青森のねぶた祭りなど遠方のイベントに足を運び、
・車中泊で1ヶ月以上、北海道を旅して回り、
・予定も立てずバイクで本州最南端まで気ままに走り、
・ベトナムに40日以上の“プチ移住”をし、
・台湾を10日以上かけて一周旅行しました。
どれも、不自由な会社員として働いていたころは難しかったことばかり。だからこそ憧れていたのです。
北海道の旅では、予定も立てずにひたすら自由に過ごしました。天気を見て目的地を決め、その日の気分で現地の名物を求めて車を走らせる。疲れたら近くの道の駅で眠り、そこで手に入れたチラシを頼りにアクティビティを見つけ、山を登り、自転車を漕ぎ、思うままに旅を続ける……。帰る期日すら決めず、「飽きるまで北海道にいる」という贅沢を味わいました。
バイク旅も同じでした。当初は2泊3日の予定で出発したツーリングが、気づけば20日以上に。紀伊半島、四国、九州、本州の最南端と最西端を経て、ただただバイクを走らせ続けたのです。
こうして、かつては夢だった非日常の数々を体験し、存分に自由を謳歌しました。誰にも何にも縛られない開放感。眠ければ寝て、腹が減れば好きなものを食べる。会社員時代に蓄積したフラストレーションを、まるごと放出するかのような日々でした。
非日常は、やがて日常になる
けれど――最近になって、ふと気づくのです。
あれほど胸を躍らせた非日常が、次第に「ただの日常」に感じられてきたことに。
もはや「非日常」というだけでは、以前のようにテンションが上がらない。
たとえば、私はかつて、バイクで北海道最北端の“宗谷岬”に行くことに強く憧れていました。しかし、いまならすぐにでも行ける環境が整っているにもかかわらず、なぜか気が乗らないのです。
その理由はおそらく「いつでも行けるから」。つまり、もはや宗谷岬は“夢の目的地”ではなくなってしまった。渇望していたはずの場所が、ただの「オプションの一つ」に変わってしまったのです。
心の中で何かが静かにしぼんでいく。
胸を焦がしたあの願望が、音もなく消えていく感覚。
目の前にあるはずの自由が、気づけば空っぽに見えてしまう。
この正体不明の空虚さに襲われたとき、私は混乱しました。
「手に入れたはずの幸せ」が、すでに幸せではなくなっている。
そんな皮肉な現実を前に、気づけば深く深く沈みこんでいくのです。
この感覚には、思いのほかダメージがありました。
自由の副作用と、再定義された“幸福”
会社を辞める前、私は様々な不安を想定していました。
収入がなくなる恐怖、老後の蓄えが減っていく焦り、会社で築いた人間関係の喪失、社会的な孤立感……
それらのリスクは事前に想定していたし、ある程度の覚悟もしていました。
でも、ひとつだけ、まったく想定していなかった落とし穴がありました。
「やりたいことがなくなる」という事態です。いや、こんなの事前に想像できないしwww
FIREを目指していた当時の私は、会社を辞めてさえしまえば「やりたいこと」は無限にあると信じていました。
時間さえあれば、人生は楽しくて仕方がない。そう思っていました。
けれど、現実は違いました。
かつての私は、“できないからこそ、やりたかった”だけだったのです。
「やりたくて仕方なかったこと」は、裏返せば「会社員だったからこそ叶わなかった夢」に過ぎなかった。
今は、時間と自由は存分にある。(お金はあまりありませんがwww)
けれど、欲しいと思うものがない。行きたいと思う場所がない。
「渇望」が消えた世界は、すこし色彩を失っていました。
欲求は、人間の推進力です。
渇望は、人生をドライブする燃料です。
それを忽然と失ったとき、燃料切れの自分を見つめるとき――
「自分にはもう、欲しいものがない」という事実が、心に重くのしかかってきます。
この感覚は、言葉にすればシンプルですが、内面的なダメージは相当なものです。
「今ここ」にいるのに、「どこか遠くへ行きたい」気持ちが湧いてこない。
こんな自分はダメなんじゃないか、とさえ思えてくる。
これはFIREの“副作用”といってもいいのかもしれません。
渇望によって前に進んできた私にとって、それを失うことは、まるで自分の一部が抜け落ちたような喪失感でした。
まとめ:幸福は日常に宿る
こうして、私は「非日常」を追い求めることを一度リセットしました。
今は「日常」を再構築することに目を向けています。
幸せの三要素として、よく次の3つが挙げられます。
1. 健康資本(フィジカル・メンタルの健康)
2. 社会関係資本(家族・友人・地域とのつながり)
3. 自己資本(自己肯定感・成長感・内的充足)
たとえば、いま私は妻と一緒に毎日近所の山を登るようにしています。
体を動かすことと夫婦のコミュニケーションを両立し、健康資本と社会関係資本の両方を充足させるためです。
家では新しいことに挑戦しています。プログラミングや文章執筆など、自分が「少し難しい」と感じることにあえて向き合うようにしています。
成長実感や達成感が得られると、自然と自己肯定感が湧いてくる(はず)。
このような取り組みを通じて、あることに気づき始めました。
「幸せは、非日常の中にある」のではなく、「丁寧に生きる日常が、幸せをくれる」のだと。
以前の私にとって、幸せはどこか遠くにあるものでした。
でも今は、日々の暮らしの中にこそ、静かに満ちる幸福があるのだと信じています。
非日常に憧れた日々も、もちろん無駄ではありませんでした。
それは、自由という贅沢を手に入れるために必要な“通過儀礼”だったのかもしれません。
けれど今の私は、ようやくその先にある「本当の幸せ」を見つめ直す心境に立ちました。
ドーパミンがドバドバ出るような非日常はほどほどにして、丁寧に穏やかな陽光に包まれるような日常を目指してみたいと思っています。
もし、今あなたがFIREを目指しているとしたら――
私がお伝えしたいのは「“自由”イコール“幸福”ではない」ということ。
自由という環境を、どこに向かって、何を感じながら、どう進むかが命題となります。
FIREは、ゴールではなく「問い直しの始まり」かもしれません。
その問いを抱えながら、あなた自身の「幸福の形」を探す旅を、ゆっくりと始めてみてはいかがでしょうか。
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