SNSに現れた「生きたサンプル」——言葉は通じるが話が通じない人たち

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第1章:文脈を解さない「生きたサンプル」が釣れた日

SNSでは時として狙い通りの獲物が、あまりにも完璧なタイミングで食いついてくることがあります。

先日、私はX(旧Twitter)で一つの論理的な「分析」を投下しました。
ある政治家の、どうにも噛み合わない言説を見て、頭をよぎったことがあったからです。

ある政治家の能力が「② 文章」で止まっており、「③ 文脈」が抜け落ちているのではないかと、
私が指摘したときのことです。
(↓私のX投稿)

私は常々「人間の言語能力には明確な「階層」があるのではないか」という考えています。

  1. 単語が理解できる
  2. が理解できる
  3. が理解できる
  4. 行間が理解できる

互いに日本語という共通言語を操っていると「ちゃんと話せばわかる」と思いがちですが、実際には会話が噛み合わない人って意外といませんか?その原因は言語理解レベルの階層の違いかもしれません。

は理解できても、を理解できない人って意外と多い


私の投稿に驚くほど「ドンピシャ」なリプライが飛んできました。

正義の剣を振るう「文脈なき住人」

そのリプ主は、鼻息も荒くこう詰め寄ってきました。
「発達障害を悪口に使うなんて、苦しんでいる人への配慮が足りない!失礼だ!」

……思わず、モニターの前で苦笑いしてしまいました。
私の投稿の趣旨は、あくまで「構造的分析」です。発達障害を貶める意図など微塵もありません。

しかし、そのリプ主には私の投稿がこう見えたのだと思います。

「発達障害」=「悪い言葉」
「悪い言葉を使った」=「こいつは悪人だ」

まさに、私が指摘した「② 文章レベル」で思考が停止しています。
そして「③ 文脈」を1ミリも読み取れていない。
私の主張“世の中には文脈を理解しない人がいる”を自ら証明してくれる最高のサンプルが、向こうから勝手に釣れてくれたわけです。

どこまでも平行線の「喜劇」

私はリプ主の誤解を解くために、議論を本来の「分析の枠組み」に戻そうと試みました。
揶揄ではない。あくまで認知特性としての議論ですよ」と。

しかし、一度「正義のスイッチ」が入ったリプ主に、論理は火に油でしかありません。
「いい意味で使っていない!」「いい気はしないと思う!」「やめてください!」

彼にとって、もはや議論など存在しません。
あるのは「悪を成敗している自分」という自己陶酔のみです。

私が提示した分析の枠組みなど、リプ主の世界には最初から存在しない次元の話なのです。
なぜなら「分析の枠組み」という考え方そのものが、「文脈(③)」という概念に相当します。
文脈とは複数の文章を統合するやや高度な情報処理であり、
リプ主には理解が及ばない領域なのです。

結局、会話は1ミリも噛み合わないまま幕を閉じました。
私は最後に「大変勉強になりました」と添えて筆を置きました。

リプ主は「自分の振る舞いが『文脈欠如』の教科書的な事例になったこと」を理解したわけではないでしょう。おそらく「正義の力で相手を黙らせた」と悦に浸っておられることでしょう www

世の中には、何度説明しても論旨がズレる人が存在します。
言葉の端々だけを捕まえて逆上する人たちです。
彼らは性格が悪いわけではないのかもしれません。

ただ単に、「文(レベル③)」が存在しない世界線で、必死に「文(レベル②)」を繋ぎ合わせて生きているだけなのです。

当然、そのような認知スタイルでは周囲との摩擦も大きいでしょう。
リプ主自身が言う”日々の生きづらい思い”の片鱗が、まさにこのリプ欄に現れている。
そう考えると、この噛み合わなさも一つの物悲しい真実に思えてきます。

第2章:正義という名の「言論封殺」とルサンチマン

なぜ、彼らはこれほどまでに攻撃的なのでしょうか。
特定のキーワードを「道徳的な盾」として使い、議論そのものを停止させる。これは現代のSNSで日常的に繰り返されている光景です。

リプ主が見せた「文脈無視」「弱者への配慮の強要」「敵・悪への二分法」という一連の流れ。これを心理学や社会学の視点で紐解くと、鮮明な構造が浮かび上がります。

1. 概念の横滑りによる「言論封殺」

今回のリプライにおいて、論理は以下のステップで鮮やかにすり替えられています。

  • 分析(③文脈):「この個人の認知特性は発達障害的ではないか?」という客観的分析。
  • 横滑り(②文章への固執):「発達障害という言葉を使った=差別だ」という短絡的な結びつけ。
  • 断罪:「差別をするお前は悪だ」という道徳的優位性の確保。

議論を「事実の探求(ロジック)」から「道徳の審判(エモーション)」へと強制的に引きずり込む。
これによって、本来の論題を機能不全に陥らせるわけです。彼らにとって、論理の正誤はどうでもいい。相手を「悪」のポジションに叩き落とすことこそが目的なのです。

2. 「ルサンチマン」と道徳的優位性

ニーチェの説いた「ルサンチマン(弱者の強者に対する復讐心)」は、まさにこの構図に当てはまります。

無力感の反転:
議論で勝てない、あるいは文脈を理解できないという劣等感を、「正義の味方」という仮面で隠蔽します。「お前を裁く権利を持つ強者」へと自分を反転させているのです。

弱者の武器化:
彼らは本当に当事者を心配しているわけではありません。自分を正当化するために「弱者」という概念を消費しているに過ぎない。

3. 文脈理解を拒絶する「生存戦略」

面白いのは、こうした攻撃的な反応こそが、私が提示した「③文脈理解」の欠如を完璧に体現している点です。

彼らにとって、複雑な文脈(③)を考慮することは「自分の正義が揺らぐリスク」でしかありません。
あえて文脈をシャットアウトし、特定の単語(②)だけに反応して噛み付く方が、精神的なコスパが良い。彼らにとっての攻撃性は、もはや一種の生存戦略なのです。

第3章:思想の対立は「時間軸(コンテキスト)」の差である

さて、ここまでの話は単なる「SNSの困った人」への愚痴ではありません。
この「言語理解レベルの差」という補助線を使うと、現代社会を分断している「左右の思想対立」という巨大な壁の正体も、きれいに説明がつきます。

なぜ右派と左派は、どれだけ議論しても理解し合えないのか。
それは単に「意見が違う」のではなく、見ている「文脈の範囲」が決定的に異なっているからです。

「歴史という文脈」を重んじる“右派”

いわゆる「右(保守)」の思考は、時間軸を長く取ります。数百年、数千年という歴史や伝統、先人の知恵という膨大な「文脈(③・④)」を背景に持っているのです。

彼らにとって、目の前の事象は単体で存在するものではありません
「なぜ、今この形になっているのか」という歴史的経緯(コンテキスト)を重んじるからこそ、急進的な変化に慎重になります。
ここでは、語られざる教訓という「行間(④)」を共有することが、対話の前提となります。

「今、この瞬間の文章」を裁く“左派”

一方で、いわゆる「左(リベラル)」の多くは、時間軸を極端に短く切り取ります。
歴史的な経緯という文脈(③)よりも、現時点での「不平等」や「苦痛」という、目の前のわかりやすい「文章(②)」にフォーカスするのです。

彼らにとっての正義は、今この瞬間に定義されたルールに合致しているかどうかです。
「歴史的にこうだった」という説明は、彼らにとっては「現状維持のための言い訳」にしか聞こえません。文脈を切り離し、今、この一点において「善か悪か」を断罪する。その方が思考のコストが低く、かつ道徳的優位性に立ちやすいからです。

知的能力の差が「正義」に変換される不条理

歴史的な文脈を理解するには、膨大な知識と、それらを統合する高度な知性が必要です。
しかし、目の前の事象を「差別だ!」「悪だ!」と二分法で裁くのには、高度な読解力は必要ありません。

結果として、文脈を解さない層が「正義」という低コストな武器を手に、複雑な社会を維持しようとする層を攻撃するという構図が出来上がります。
「文章(②)」レベルで生きる人々が、その「正しさ」を盾にして、より高次元の「文脈(③)」を解する人々の足を引っ張る。これが現代の至る所で起きている摩擦の本質ではないでしょうか。

この認知レベルの差による分断は、家族内の諍いから国家の分断まで、フラクタル(自己相似)な構造として現れています。
では、私たち「文脈を解する側」は、この絶望的な平行線に対して、どう心がけるべきなのでしょうか。

第4章:絶望的な断絶をどう生きるか —— 感情コストの戦略的配分

文脈(③)を解さない層には、論理的な議論は通用しません。この残酷な現実を前に、私たちはどう振る舞うべきなのでしょうか。結論から言えば、「生産的な対話」への期待を捨てること、これに尽きます。残念ですが。

彼らにとっての議論は「真実の探求」ではなく「生存をかけた闘争」です。非を認めることは自己の消滅を意味するため、彼らは身をよじってでも「負けないこと」に固執します。この不毛な戦いで消耗しないための、二つの処世術を整理しましょう。

1. 個人対個人の対峙:議論(Discussion)から管理(Management)へ

家族や職場など、どうしても避けられない相手に「文脈」を求めるのは、もはや良かれと思って相手の症状を悪化させる行為に等しいと言えます。対等な対話を諦め、「オペレーション」として対応を切り替えるのが賢明です。

  • 「土俵」に上がらない: 相手が道徳的正義を振りかざしてきたら、「それは一つの意見ですね」と事実の報告(②)として処理し、深入りしません。
  • 「負け」をプレゼントする: 実害がない範囲で「あなたが正しいことにしましょう」とあえて花を持たせます。相手の「正義の味方」という仮面を守ってやることで、早期に会話を切り上げる戦略的撤退です。
  • 「アイ・メッセージ」に徹する: 「あなたは間違っている」という主語は攻撃スイッチを押します。「私はこれをする」という、自分を主語にした事実(②)のみを伝達することで、無用な摩擦を最小限に抑えられます。

2. 社会・政治思想への向き合い方:ルサンチマンの沼から距離を置く

マクロな視点においては、文脈を解さない層による「言論封殺」や「ルサンチマンの増幅」に、まともに取り合わないことが重要です。

彼らの攻撃は、あなた個人への不満ではなく、彼ら自身の内側にある「世界への恐怖」や「自己嫌悪」の投影に過ぎません。それらをあなたの論理で解決してあげることは不可能です。「あ、今、認知のバグが起きているな」と、臨床心理士のような観察者の視点を持つことで、自らの精神的な境界線を守ってください。

そして何より大切なのは、自分の貴重なリソースを投下する先を間違えないことです。文脈を共有できない人間との接触は、あなたの知性を摩耗させるだけです。同じ言語能力の階層を持つ者たち、複雑な文脈や行間を慈しめるコミュニティにこそ、あなたの勤勉さと熱量を投資すべきです。

結びに代えて

「強者が弱者を支える」ことが社会の存続に必要だとしても、それが強者の自己犠牲と弱者の増長の上に成り立つのであれば、それは健全な共生ではありません。

言葉が通じるからといって、同じ世界を見ているとは限らない。

この不条理をメタ認知し、冷徹に距離を測り続けること。それが、日常の平穏な時間を守り、知的で高潔な人生を維持するための、唯一の生存戦略なのかもしれません。

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