第1章:サラリーマンの友人が語った「非日常=人生の充実」という幻想
先日、サラリーマンの友人二人と飲んでいた時のことです。話題が「人生の充実度」に及んだ際、彼らは一様にこう主張しました。
「移動の総量が多いほど、人生の充実度は向上する」
週末に遠くへ出かけたり、休暇にレジャーを楽しんだり。日常のルーチンから物理的に距離を置くことこそが「人生の彩り」であり、その移動の積み重ねが充実感に直結するというのです。
私にも、その気持ちは痛いほど理解できます。かつてサラリーマンだった頃、私も平日の閉塞感を打ち消すために、どれほど週末の余暇や旅先での解放感を待ちわびていたことか。あの瞬間のために働いていると言っても過言ではありませんでした。
しかし、ルーチンから完全に解放された「無職の自由人」となった今、その景色は少し異なって見えます。
確かに余暇の楽しみは否定しません。しかし、それを「人生の充実」という重い言葉で定義してしまっていいのだろうか。彼らの熱っぽい語りを聞きながら、私の胸には静かな、しかし確かな「違和感」が芽生えていました。その違和感の正体を突き詰めると、移動という行為に隠された「脱獄囚の論理」が見えてきたのです。
第2章:「脱獄囚」の論理と、非日常という名のドーピング
なぜ、彼らはこれほどまでに「移動」に価値を見出すのか。その根底には、人類が刻んできた壮大な生存戦略が隠されています。
1. 抑圧された移動本能の噴出
人類の歴史の大部分は「狩猟採集」の時代でした。当時、一つの場所に留まり続けることは資源の枯渇を意味し、移動することそのものが生存戦略に直結していたのです。
一箇所に定住し始めたのは人類史においてごく最近の出来事に過ぎません。私たちの遺伝子には今なお、「移動することで生存率を高める」というプログラムが深く組み込まれています。そのため、物理的な移動を制限されることは本能レベルでストレスとなり、逆に移動の総量が多いほど、生存本能が満たされるような充足感を得やすいと考えられています。
しかし、現代のサラリーマンは、週5日、決まった時間に決まった職場へ出勤するよう「契約」によって強制されています。これは、いわば遺伝子に刻まれた移動本能を、社会的な枠組みによって力ずくで抑圧している状態です。抑圧された本能は、週末や連休という「解放」の瞬間に、過剰なまでの移動への渇望として噴出します。彼らにとっての移動距離とは、抑圧から解き放たれた「生存本能の叫び」そのものなのです。
2. 日常を「無価値」と見なす危うさ
彼らがことさらに移動に価値を置くのは、それが「閉塞感のある日常」を一時的に忘れさせてくれると期待しているからではないでしょうか。いわば、非日常をある種の「ドーピング」のように捉え、日々の渇きを潤そうとしているのかもしれません。
しかし、この価値観を突き詰めていくことには、一つの大きな危うさが潜んでいます。それは、非日常に価値を置けば置くほど、人生の9割以上を占める「平穏な日々」を無価値なものとして切り捨ててしまうことになる点です。
もし、特別な場所へ行かなければ幸福を感じられないのだとしたら、私たちの日常はただの「耐える時間」に成り下がってしまいます。さらに恐ろしいのは、非日常への探求には終わりがないということです。
刺激はやがて慣れを生み、期待値はエスカレートしていきます。これこそが「非日常が日常になる」というパラドクスです。かつては感動した景色も、繰り返せば当たり前の風景になり、より遠く、より過激な刺激を求め続けなければ満足できなくなります。
想像してみてください。究極の非日常を追い求め続けたアルピニストが、より遠くへ!より激しく!と非日常性をエスカレートさせたとしましょう。そしてついにエベレスト登山すら「ただの散歩」に思えてしまったとき、彼は一体どこに幸福を見出すのでしょうか。終わりのないエスカレーションの先に、本当の意味での「人生の充実」があると言えるのでしょうか。
移動を通じて外側に刺激を求める行為は、自ら「幸福のハードル」を上げ続けているだけなのかもしれません。
第3章:外側に「正解」を求めるか、内側に「解像度」を求めるか
ここで誤解のないように定義しておきたいのは、すべてのサラリーマンが盲目的なわけではなく、またすべての自由人が賢明なわけでもないということです。ここで対比したいのは、あくまで「移動を偏重するサラリーマン」と、「移動の自由を手にした上で、日常を重んじる自由人」という、二つの思考スタンスです。
「移動を偏重するサラリーマン」:外側に自分を変える何かを期待する
普段、職場という閉ざされた空間に拘束され、画一的なコミュニティに属していると、人は「物理的に遠くへ移動して、価値観をアップデートしなきゃ」という強迫観念に駆られがちです。
その結果、会社という箱の外側に「自分を変えてくれる何か」があるはずだと、非日常に対して過剰な期待を抱いてしまいます。確かに移動すれば、日常では決して触れられない刺激があるでしょう。しかし、スタンプラリーのように新しい地平を追いかけたところで、外的刺激を消費するだけ。それが本質的に自分を変えてくれるかどうかは、期待薄だと言わざるを得ません。
「日常を大切にする自由人」:内側の解像度を試す
一方で、移動の自由を持ちながらも、外的刺激に過剰な期待をしない人は、闇雲に非日常を消費することはありません。彼らにとっての移動は、自分を変えてもらうための手段ではなく、自らの「対象を眺める角度(解像度)」を試すためのチャンスに過ぎません。
重要なのは移動距離ではなく、そこで何通りの文脈を読み取れるか。物理的に移動しなくても、一つの事実を多様な角度から解釈できる知力があれば、視点は無限に拡張できることを知っているのです。
自由人にとって移動とは、視点を拡張するための「触媒」であって、決して人生の欠乏感を埋めるための「目的」ではないのです。
第4章:まとめ —— 磨くべきは、派手な景色ではなく「内なる視力」
移動に人生の充実を期待するのは、いわば「自分の視力の弱さ」を「景色の派手さ」で補おうとする行為です。
視力が弱い人間は、遠くの派手なネオンサインしか捉えられませんが、視力の高い人間は、足元の雑草の微細な差異の中にも、複雑な文脈を見出します。
- 移動派: 外側の景色が変わらなければ、中身(心)が動かない。
- 日常派: 内側の視点(解像度)が変わるから、同じ景色でも飽きることがない。
本当に人生を充実させたいのであれば、見果てぬ地平を追いかけるのをやめ、平穏な日常の機微を読み解く「内なる視力」を磨くべきではないでしょうか。
日常の中に無限の「非日常」を見出す能力。それこそが、物理的な移動に頼らずとも、人生を豊かにし続けるひとつの生存戦略だと思います。


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